誕生日に想うこと

確か80年代。モラトリアムとかステューデント・アパシーなんていう言葉が社会現象的に飛び交っていた。

モラトリアムは社会に出るまでの執行猶予期間。ステューデント・アパシーは学生の無気力さを示す言葉。目的なく彷徨う若者を指して揶揄する外野からのノイズのような言葉に聞こえた。当の学生はそんなことを意識して生活しているわけでもない。二十歳の僕は経済学部の学生だった。心理学や精神医学の書物に手を出していたから、その言葉を主観的な客観性を保った状態で、冷ややかに見ていた。当時、僕はどちらかというと、アイデンティティ・クライスの状態で、自分自身がわからなくなっていた。現実社会に嫌気がさして、原始社会に興味を注ぎ、文化人類学・経済人類学に傾倒していた。その筋の学者にでもなろうと考えていた。バブル時代を楽しめない若者だった。大衆文化を受け入れることが出来なかった。天邪鬼だった。大勢の人々が受け入れていることを受け入れない反発した感情があって、素直になれない自分にも嫌気がさしていた。獲物に食いついてむさぼり食らうハイエナが大衆文化だと思い込んで、ハイエナには近づかないようにして独自路線を模索していた。あの頃の自分は、今の自分の一部でしかないが、残存してはいるのだろう。今日で、58歳になった。ジョン・レノンと同じ誕生日であることを少し自慢に想ったりしている。紆余曲折の上、医学を修め、医者となり、さらに詩人にもなろうとしている。作家にもなろうとしている。いつまでたっても真の意味でアイデンティティなんて、なくても良いんじゃないかと考えている。むしろ予測のつかない未来に向かって、その場その場で興味の向かう方向へ舵を取って生きているのがいい。ただ、医者であることは天職と考えていて、それだけは譲れない。死ぬまで医者として本道を歩み続ける。それ以外のことは寄り道、道草かもしれないが、寄り道をしながら、生きていこう、そう考える。それが自分らしさ。アイデンティティといえるものかもしれない。古ぼけた部屋を出て、新しい扉を開いてみる。