左手の匂い

初めてグローブを

買ってもらった

正確には

グローブではなくて

ファーストミット

巨人の王選手が

好きだったから

家の中でも

ずっとはめたまま

嬉しかったから

小学四年生のとき

少年野球を始めた

ファーストミットで

どこでも守った

走るのは苦手で

背が低くて

右利きで

たいしてバッティングも

上手くなかったけれど

王選手がかっこよかったから

どうしても一塁を守りたかった

ショートバンドや悪送球を

上手くさばく練習を

数え切れないくらいした

六年生になった時

一番ファーストで

試合に出るようになった

ますます野球にはまった

僕の左手はいつも

ファーストミットの皮の

匂いがしていた

そういえば、

僕の左手は成長につれて

匂いが変化していった気がする

中学生になって野球はやめた

テニス部に入った

僕の左手は

軟式テニスの

ゴムボールの匂いがしていた

生徒会に入って

書記長をするようになると

僕の左手は

印刷のインクの匂いに

変わっていた

生徒会報を書いては

印刷ばかりしていたから

高校生になった

しばらくはギターの弦の匂い

ばかりしていた

ある時から、

僕の左手からは

何の匂いもしなくなった

汗ばんだ手のひらを

ズボンで拭っていた

大学生になった

僕の左手は

いつもタバコの匂いがしていた

それからは

左手のにおいを気にしなくなった

医者になった

僕の左手は

アルコール消毒の匂いか

ハンドソープの匂い

何十年も

左手の匂いは変わらずにいる

思い返してみると

左手の匂いは、僕の人生