癒やすということ

日常に疲れていると

思い込んでいる人は

自分を癒やすことに精一杯なんだろう

 

(その日常って何だろう)

 

人を癒やす余裕などない

 

(その日常ってなんだろう)

 

人を癒やしているつもりのはずが

自分が癒やされる側に

回り込んでいる可能性にすら

気づけない

無意識に、そう

 

そんなことってないだろうか

 

自分の癒やしを優先すれば

人への癒やしなど

考える余裕が

生まれるはずがない

 

自分が癒やされた状態でないと

人を癒やすことはできないと

考えるのも、違う気がする

 

ただ、

人を癒やしている人には

癒やされている人が必ずいて

 

癒やされていると実感している人からは

愚痴がこぼれてこない

 

感謝されるのみ

 

日常に疲れている人は

周りから愚痴ばかり聞かされる

周りに愚痴ばかり言う

 

(その日常ってなんだろう)

 

さらに疲れが蓄積して

悪循環から身動きできなくなってしまう

手足が冷え切って、こわばっていく

手のひらがボロボロになっていく

 

疲れを与えるだとか余裕を奪っていく、日常とは

いったいどんなものなのだろうか?

その実体はいかなるものを指すのだろう?

 

自分で作り上げざるを得なかった、

あるいは何かのきっかけで急に訪れた、

「その日常=不幸」の縮図

 

そのなかで、

不幸を守り抜こうとすることだろうか

それとも、

不幸を幸せと思い込もうとするところに

心のひずみが生じてくるのだろうか

 

果たして、そんな日常に

幸福が芽吹いてくるものなのだろうか?

 

人を癒やす力のある人は

何かのせいにしない

 

何も言わず、癒やす。

自分がどんな状況にあろうとも

 

それなら

実に微笑ましく

実に美しい根心になる

 

それは人から言われて

そうするものではない

 

気がつくと

事態がそう動いているだけ

 

現実的に人を癒やすことができるとは

そういうものではないだろうか

 

 

 

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(京都市博物館近隣にて撮影)