菩提樹

あるとき

京都嵐山の松尾橋近くにある

創作料理店での食事の席で

魯山人自作の器を

手に取り、眺めながら

こんな想感がわたくしの中を

通り過ぎていった

 

いつか

ずっしりと大地に根を下ろした

樹木を窓辺から眺め

天気のすぐれた日には

散歩をして

その大木の木陰で居眠りをし

本のページをめくるときには風に頼み

時間に急かされるのではなく

太陽の動きに自分の生活を合わせて

暮らしていたいと想像してみる

 

家に帰れば

心のこもった食事と

風呂がほどよく用意され

寝所も毎日きちっと整頓されているのが

ごく、当たり前に習慣化され

そんなことに

いちいち気を使うまでもなく

大きな気持ちで

自分の居場所が確保され

穏やかに愛情で満たされた

環境に身を置いて暮らしていたい

 

この思いは

果たして、あこがれだけに

終わってしまうのだろうか

不安と焦燥にさいなまれては

目も心も閉じる

 

小さなことにこだわらず

懐深く、人を見ることが出来る、

大きな男に成長し続けていくためには

それに適した環境がある

 

若者は環境のせいにしてはいけない

 

しかし周りを見渡してみて思うに

ある程度成熟を遂げた者は

そのひとがそうあるべき環境がないと

年を重ねるだけの、だめな人間になってしまう

予感がする

 

人間はある環境の中で生きる生物

 

どんなに立派な器でも

不注意な人間が扱えば

床の上で微塵もなくなってしまう

 

大器は、それを価値のあるものと認識し

丁寧に扱うのでなければ

大器ではなくなってしまう

 

大器に「わたくしは大器である」などと

言わせて、はずかしめ

怒りを立ち上げさせてしまうのは

嘆かわしく、かつ、いかがわしいことである

その価値を理解し、大器として扱うのが

存在価値環境の前提である

 

手にした器の重みが

暗示をかけようとしているかのごとく

わたくしに語りかけてきた