夢を守っていたいよね
遊びきって、寝る
大の字で
寝返って
世界地図を
大きく描く
どんな
驚くような
すごい夢を
見ているんだろう
それが成長、
子供たちの特権
しかりつけちゃ
ダメだよね
ほほえましく
見守って
いたいよね
子供たちには
いい寝顔
で
いてほしい
ずっと、ずっとね
*
サンタクロースは誰なの?
小さい頃、枕元に置かれたプレゼントを見つけて、サンタさんありがとうって、喜んだ。「本当にサンタさんはいるんだ」と思った。いつもお決まりの赤い靴下の形をした入れ物にお菓子が入ったやつ。毎年、そうだった。(靴下を置き忘れたから、そういうプレゼントなんだと思っていた。)
母親は夜中までずっと働いていた。着物に刺繍を入れていく細かい作業をする工芸師だったから。着物に針を通すときの音が、子守唄の代わりをしてくれていた。そんな忙しい母親が、プレゼントに気を回すところまではいかなかったんだろうと、今となっては考えることが出来る。(そういえば、母親の寝姿を物心つくまで見たこともなかった。起きている母親しか、見たことがなかった。)
小学5年生の頃、サンタクロースの正体は親であることを知った。母親は、笑いながら、ほっとしたような顔をしていた。最後のプレゼントだけいつもと違って、青い自動車のプラモデルだった。母親の精一杯が、とても悲しくて、それでいて、とてもうれしかった。結局、組み立てなかった。ただ、プラモデルの表表紙に書いてある青い角張った車のデザイン画だけが、頭に刻まれた。(大人になって初めて買った車は、青い角張ったジムニーだった。無意識にあのときのデザイン画を思い浮かべていたのだろうか。)
その翌年からは、朝起きたときに枕元のプレゼントが無くて、寂しくなった。このとき、現実というものを、初めて実感した気がした。
結婚して、子どもができた。
サンタクロースが自宅までプレゼント、しかも望通りのものを、届けてくれることはあり得ない。そんなことは百も承知で、サンタさんからのプレゼントを仕入れてくる覚悟は、ごく普通の事柄になっていた。
子どもから何が欲しいかそれとなく聞いておいて、おもちゃ屋で手に入れた。
「それ」を、寝静まった子どもの枕元に置くようになった。子どもは、サンタさんありがとうと言って喜んでいる。それを見ていると、うれしくて仕方がない。
親は、自分のことを嘘つきとは思わない。
子どもの笑顔が見たい、ただそれだけ。子どもの夢を叶えてあげたい、ただそれだけ。それだけだらけの想いで、嘘つきであることを忘れてしまう。大人からすれば、ただの未熟な物欲なのに、サンタクロースから欲しいものがもらえるという夢物語を作りたくなってしまう。その上、「サンタさんは、本当にいるんだよ」と、嘘に嘘を重ねていく。煙突が無くても、靴下を置いておかなくても、雪が積もっていなくても、「サンタさんは、必ず来るよ」と。(サンタさんからプレゼントをもらいたいと想うのが子供で、サンタクロースになりたいと考えるのが大人なのだろうか?)
ときに、親というものは、子どものためなら、現実の世界を飛び越えて、架空の世界にまでよじ登ってしまう。
俗に言う“親ばか”だ。
“嘘つき”ではなく、“親ばか”だ。
「サンタさんは誰なの?」っと、聞かれて戸惑うとき、初めて親心などというものが、理解できるようになるのかもしれない。(そうして、迷惑ばかりをかけてきた、親のあのころの気持ちを考えて、自分も親になっていく。)
やっぱり、サンタクロースはいると想いたい。
きっと、いるはず。
*
世の中に三つだけしか
言葉がなかったとしたら
「ありがとう」
「ごめんなさい」
「あいしています」
を選ぼうと、想う・・・