花嫁の耳かざり
疲弊のため息を気付かれぬよう、たばこの煙
に紛れさせて、はき出した。下町の小さな喫
茶店で、効き過ぎの冷房に耐えながら、女は
それを繰り返した。
テーブルの前に座る少年は、そのため息が煙
に紛れていることを知っていた。壁に突き当
たったため息から、悲しみの一滴が色を変え
てにじみ落ちていた。
しかし、子供には分からない大人の疲れた様
子を無視して、ミックスサンドにかじりつい
た。流行の歌謡曲が店内に流れていた。同じ
フレーズがリフレインして、壁にしたたる一
滴を隠そうとしていた。不思議にその曲は後
にも先にも、一度しか聞いたことのない曲だ
った。
少年は大人になった。疲弊のため息を気付か
れぬよう、たばこの煙に紛れさせて、やはり
はき出していた。あの曲が頭の中で流れ始め
た。記憶に刻みつけられたフレーズは時代錯
誤なメロディーで、それが哀しかった。あの
ときの母親のため息が、今の自分には、少し
理解できる気がした。
悲しみの一滴を背負う心象は、生真面目に働
いて汚れた手を洗い流した後に訪れる、大人
のあたたかみに想えてならない。
( 詩と思想 詩人集 2016 土曜美術出版販売 掲載作)