見た目がイヤだと嫌われる理由

幼き日の郷愁と

自分自身の未来のために

虹を超えていこうとする

醜いアヒル

 

自分らしさとは何かと

悩むのは深い

 

人と同じでないことを

嘆くのは浅い

 

人と違うことは

よくないことだという考え方を

最初にすり込まれるのは校則

 

無難に従っておけば

つべこべ言われることはない

だから、ほとんど

道徳的価値も意義もない

生徒手帳に書かれた文言を

形式的に逸脱しないように

しているだけの話だ

今も状況は変わっていないだろう

 

長年傍観していて思うのは、

こうだ

 

厳しい、あるいは

ナンセンスな校則によって

生徒たちの倫理感覚が

いい方向に向かった

ためしがあるのだろうか?

 

部活に入らないと

変わり者扱いされて

なんだか罪悪感を感じるのは

馬鹿馬鹿しくはないかい?

 

逆に部活動なんて

半場強制されているのは

日本だけかもしれないよ

 

部活なんて

欧米人からは変な目で

見られているよ

 

本当に才能のある

アスリートの多くは

学校の部活なんかしていない

クラブチームで切磋琢磨している

外国ではそれが普通

 

部活の中で

チームプレイなどの協力や

思いやりの人間関係を作ることが

大事だと言われる

 

だけどね、長い目で見ていると

部活の中で培った人間関係って

部活の中でしか役に立たない

ことの方が多いんだ

 

自分ひとりになったとき

しっかりと自分ひとりで

人間関係を築いていくことの出来る

能力というのは、部活動の中で

育つとは限らない

 

実社会の人間関係は

厳しいものだ

だから、部活でキラキラ輝いていた人の

大半は、全く別の仕事に就き

キラキラしていた過去を思い出しながら

普通の人になってしまうものだ

 

閑話休題

 

授業中、寝ていたら

生徒のせいにして怒る教師

 

自分の教え方がダメなせいだとは

夢にも思っていない

 

人を批判する前に

自分のことを反省するという

当たり前のことができていない

 

生徒に校則を押しつけるなら

教師にも校則を押しつければ

どうだろう

 

校則ほど

矛盾に満ちて

世俗離れした

時代遅れなものはない

それを教師も

自覚する必要があるからだ

 

教え方の創意工夫なく

生徒をひきつける

学術的魅力や人間的魅力のない

サラリーマン教師にも停学を命じるのが

フェアーなやり方ではないか?

 

何らかの意味で

魅力がある人間は

見た目がイヤだと嫌われることも

ないだろう

 

ましてや、食べ物でもあるまいし